嬉野市塩田町 蒲原タツエさん(大5生)

 むかーしむかしねぇ。

佐賀藩の決まいで、とても厳しか藩の決まりがあったと。

それはねぇ、他の県へ出(ず)っこともならん。

それはねぇ、他の県へ入るっごともならん。

こりゃもう、藩の掟(おきて)じゃったと。

この決まいば犯した者(もん)な死なんばらん、切腹て決められとったあ。

そうした時も時ねぇ、

塩田の久間(藤津郡塩田町久間)の城主の茂春公ていう、

この方の長女がねぇ、お寺詣りに行かれたまま手に手を取って行方不明になんさったて。

そいぎもう、そういう他所(よそ)さい行くことなん。

他所ん者も来てもいかんちゅう厳しか決まりのあんもんじゃい、

もう、全部(しっきゃ)あがかいして家来達捜(さぎ)ゃあたぎね、

熊本におんさっことのわかったて。

そうして、加藤清正公のねぇ、

家老さんの所に嫁入りしとんさったことがわかったとよ。

そいが、じきねぇ、本藩の佐賀の鍋島勝茂公の耳にちい入(ひゃ)あたて。

そいぎぃ、

「藩の掟ば、しかも殿さんの娘であいながら破った」ち言(ゅ)うことで、

「清正公の家老さんと、結婚した長女との縁談は破談にせんば仕方んなかあ」

ち言(ゅ)うことで、佐賀さにゃ連れ戻したぎぃ、その自殺しんさったて、その娘さんは。

そうして、両親の茂春公と奥方様も切腹じゃったて。

そん時ゃねぇ、家来の十八名も追い腹切って死んだてよ。

そして、血川ちゅうて、そん時沢(よん)山(にゅう)人の死んで血が流れたもんじゃっけん、

川さにゃ流れて刀も洗うたいしたぎぃ、血になって、そこん辺(たい)の流れおった川を

「血川」ていう名前の今でん残っとっ。

そうして、とうとうその、監督ふゆきちゅうところで、

久間のお城は断絶になってしもうたて。

そいから三十三年も経ってからねぇ、

「三十三回忌ないとん、茂春公ても言われた方やっけん、供養ないとんせじにゃあ」

ち言うて、そこに供養塔ば建てられたて。

治福庵(佐賀県嬉野市塩田町下久留間)ちゅう、

あすこん辺(たい)の庵寺の前へんに。そこを皆は、

「たっちゅうさん」と呼んで、線香やお花が絶えることなく今も上げられておって。

「たっちゅうさんの墓」て、未だに残っております。

そういうことです。

[一二八 自然説明伝説(塚)]
(出典 蒲原タツエ媼の語る843話 P815)

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