嬉野市塩田町 蒲原タツエさん(大5生)

むかーしむかし。

ある村に、おっ母(か)さんと娘と二(ふ)人(たーり)、暮らしをしないよったて。あったいどん、あの、お母(か)さんがよう身体弱(よお)うして、何時(いつ)ーでん病気ばっかいしおんさったて。あいーどん、この娘はおっ母さんに親孝行でもう、村中で評判やったて。そいが殿(とん)さんの耳にまで入(はい)ってね、お殿さんの、

「きゃん感心な娘のおっかあ」て。「そいぎんとにゃ、私(わし)もいっちょ、どういうふうにして親孝行してるか、見てみたい」て、言うことで、お出でんさったて。そいぎねぇ、皆がねぇ、

「殿(とん)さん、あぎゃん貧乏の家(うち)にゃあんたんまで、殿さんまで、行きんさっぎあんまいばい。ぎゃん、ひえひこうで(差シ控エテ)何(なん)なんもしわえじわからん」て。家来達が、

「そいぎ私達が見て来ましょう」て言うことで、殿(とん)さんの家来達が今度(こんだ)あ見や行ったて。そいでねぇ、冬の日で早(はよ)う日の暮れとってじゃもん、お城からの家来どんの行きよったぎぃ。

あったぎもう、戸は閉めてもう夕飯時じゃったて。そいぎ家来どまねぇ、戸の隙間からジーッと、どぎゃんふうに親孝行ばしよろうかにゃあ、て見おったぎねぇ、おっ母(か)さんな黒ーかごたっお粥ば、ソロソロソローって食べおんさって。そして娘ば見ようぎぃ、娘は真っ白かご飯ば食べよってじゃん。あいどん、ジーッと見よってみゅう、どがんしゅうだあ、と思うとったぎぃ、その娘は早(はよ)う食べてしもうて床とって、ゴローッて寝てしもうた、布団かぶって。そいぎねぇ、来た家来どま顔見合わせてぇ、

「あいが親孝行やろうか、反対じゃなかっかにゃあ」て。

「おっ母さんには、黒ーかとば食わせて我が白かまんま食べて。親不孝者(もん)たい」て、言うて帰ったて。

そして殿(との)さんには見たごーとねぇ、そがん言うて話(はに)ゃあたぎぃ、庄屋さんな呼びつけられんさった、あくる日は。そいで殿(とん)さんの言んさっには、

「親孝行てまっかな嘘」て。「お前(まえ)さん達ゃ『親孝行の手本』ち言(ゅ)うたけん、私(わし)ゃあもう、私(わし)が行くちゅうたぎぃ、『殿(とん)さんの行くには及ばん』て、言うから、家来ばやったぎぃ、『おっ母(か)さんには黒か飯(めし)、我がは白か飯。そうしてサッサと寝てしもうた』」言うて、ぼやきんさったぎさい、庄屋さんの言んさっには、

「まあー、殿様チョッとまあー、お聞きください」て。「あれはおっ母さんには、貧乏だから粟のご飯やったて、粟のお粥ば食べさせよったて。そうて自分は豆腐屋さんからおからを買う(こ)て来て毎日食べおって。そいけん、おからが白かったとっ。そうして、夜は早(はよ)ーうおっ母さんが温(ぬっ)かごとと思うて、床ば温むっために早うー寝むっととです。そうして自分は、その後で起きて夜なべ仕事に縄をなったい、草履を作ったい夜中までも働きよっとです」て言うて、庄屋さんが言んさったぎと、殿(との)さんの、

「誠、そうじゃったか。そうじゃったか」て言うて、「そぎゃん貧乏しとんない、三俵ぐらい一年にゃ食ぶっじゃろう」ち言(ゅ)うて、

「白米を、この親子には一年に三俵ずつ遣わす」ち言(ゅ)うことで、そいから先ゃあ、ほんにー褒美ば貰(もろ)うて楽に暮らしんしゃったて。

チャンチャン。

(出典 蒲原タツエ媼の語る843話 P596)

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