嬉野市塩田町 蒲原タツエさん(大5生)

あの、鹿島の女学校(現・佐賀県立鹿島高等学校)にねぇ、ズーッと通うて。そいぎぃ、山の凹(くぼ)ん所に松のあっのが、私達の通る向こうの道からこの向こうん方から見ると、「学」の字に見えよったわけぇ。そいで、あれは「学松」て、名前で呼びよった。

そいぎこれはねぇ、むかしむかしじゃない、今にもつながる話なんです。私達の学校に通う時に、西の方の山と山とのあい中によほど大きな松の木とみえて、私達が見ると、「学」の字に見えとったから、あれを「学松」て言うて、皆が言っていました。お婆ちゃん達も、「あいを『学松』たいのう。あいこそ『学松』ばい」て言うて、言いよった。

そいぎ私達は、それを天気の占いにしとったわけです。上ん方に、あの、笠雲ちゅうて、上ん方に雲のかかるのを笠雲。そいから、左の方から霧の流れてくっぎぃ、こりゃあ、雨雲。右ん方から雲のこう曲がってくっぎぃ、雲はかけよいどん、いんま(アトデハ。今ニ)良うなって、晴れるというような天気の占いのできていたのが、あの「学松」で良く当たっておりました。

ところが、それはねぇ、ズーッと昔、長崎の港に上られた弘法大師様が、ズーッと多良岳(九八二・七㍍ 佐賀県藤津郡太良町)の小長井(長崎県高来郡小長井町)から、多良岳を渡って、そして嬉野(佐賀県嬉野市嬉野町)を越えて、あの凹ん所を通られる時に、「ここに、道しるべに何か植えよう」て、いうことで、「何(なん)が良かろうかあ。何にしゅうかあ。檜(ひのき)にしゅうかあ。杉の木にしゅうかあ。いや、めでたい松にしよう。また来る人のために、待つような松にしよう」て言うて、松を植えられたと、いう言い伝えがあっとばい。

そして、皆が向こう通る時には、「学松、学松」ち言(ゅ)うて、それを見て仰いで皆が通っていたて、いうことで、本当はその「学松」を通ってねぇ、ここの荒瀬(佐賀県嬉野市塩田町)の渡し場(私達は、そんな昔を知らずおったです。)を渡って、布手(ぬので)(佐賀県嬉野市塩田町)の一本松を通って、そして原町(佐賀県嬉野市塩田町)ちゅう所を通って塩田川て。こいが昔の往還道て。「往還道、往還道ち言(ゅ)うぎぃ、広か道じろうと思うとったら、実際通ってみると狭い山道たい」て言うて、お婆ちゃん達。「山道でん、こいがほんな本通りじゃったとよ」て、聞いていました。「そいけん昔ゃ、山道ば越えて来(き)よったけん、山賊どんが出よったあ」て、言うねぇ。

そんな言うて、祖母が言いよった。しかし、それを調ぶっぎほんなこてぇ。私達はねぇ、あの、多良岳にも行って見たらねぇ、もう大きな、ぎゃん四角か、ちょうどこんな四角か石が建っとります。そしてほら、さざん花の茶屋。実は、その石ば見ぎゃじゃなし、「さざん花の茶屋」ち言うぎぃ、何か、多良岳さんの岳の新太郎さん、「さざん花の茶屋」ち言うて、唄のあっけん、あの、「『さざん花の茶屋』ば一遍見ぎゃ行こうか」ち言(ゅ)うて、行ったとですよ。

そうしたところが、真四角の身丈より高い石碑が建っとりました。往還道の印もありました。ところがおにぎい峠の学松は、昭和何年に切れたろうかあ。昭和三十年頃じゃったやろうかあ。家(うち)のお婆ちゃんの生きとんしゃったよ、この美野ねぇ。昭和三十年頃、学松を倒して作られた臼が十一個だったと一斗臼が太か臼が十一と。枝葉からも小(こま)ーか臼のね、幾つもできたそうです。四、五人のお爺さん達で、学松を倒された時は、ここら辺(あた)りの里まで地響きのしたですよ。ドドーンて、揺れて。そんな大きな松でした。

一斗搗き臼の十一も取れて。そして枝からもねぇ。幾らじゃい。大抵余計とられたそうです。昭和三十年頃じゃったと思うね。

〔八九 自然説明伝説(木)〕
(出典 蒲原タツエ媼の語る843話 P783)

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