東川登町袴野 南 権平さん(明31生)

 十一になる時なたあ、一休和尚さんは(こま)か時はさい、

貴公に似とっいう人じゃったもんなたあ。

その宗純が、あの、京都の大徳寺のお寺の小僧におったちゅうわけ。

そいぎぃ、そこの大徳寺の禅宗和尚さんと言うとが、なかなか位のあるお方で、

そうして小僧あたりが七、八人おったらしゅうござんすっ。

それぇ、今度(こんだ)あ足利義満公が三国弁来のきりゆうな茶碗で、

そこの大徳寺にそいば預け取ったもようたいなたあ。

あの、大徳寺のきゅうな茶碗でお茶湯をせんぎぃ、まあ、

した甲斐なかちゅうくらいの、まあちょっと大切にしよったらしいござす。

そいぎ今度あ、ちょうどそこのお茶の宴会があった時、あの、

ぎじゅうな茶碗じゃもんじゃいけん、小僧どんが、

「わが先に」て言うて、こう、争うてみよったらしいです。

そん時その、茶碗をうち割ったちゅうもんなたあ。

そいぎもう、しっきゃあ小僧どんどくしにおって、

「もう、こりゃあ、将軍様からお(とが)めにきて、

どういうことないどん、お手打ちになっ」ちゅうごたっ風で、

もう、しっきゃあながらビクビクしよるわけ。

そいで宗純は、十一になっ時、

「その罪はわが一人で引き受くっけん、あの、心配することなか」

て、言うごたっ風で。

そいぎぃ、宗純が罪を引き受けたらしかですよ。

そいぎ今度(こんだ)あ、いやおうなし茶碗を禅宗和尚さんが

取いぎゃあ来んさったわけじゃ、何じゃいろう。

そん時、あの、禅宗和尚に問答があっ。もう十一なって、

「生あるものは如何」と。そいぎぃ、

「『生あるものは』ついに獅子なり」と、

こう和尚さんも言いんさらんて言うわけじゃんなたあ。

そいから今度(こんだ)あ、

「形あるものは如何」と。

「『形あるものは』ついに(めし)となり」と。

「形ある野郎の茶碗は、めしております」

て言うて、そいを持って行たて。

そいぎぃ、将軍さんがその、もう根っこのいきどおって、

「将軍ていう奴をここに引き出せ」て。

「その、手うちするから引き出せ」て、言うごたる風に。

そいぎぃ、その禅宗和尚がもう、ビクビクして、その宗純を連れて、

足利義満公の前に行たわけたいなたあ。

そいぎどうして、和尚さんは打ち首あうごたっ気持ちで色も蒼ざめて行たて。

そうして今度(こんだ)あ、

「宗純とやら、近く寄れ」て。「手打ちをすっ」て、

足利義満公が刀の(つか)に手をもうかけたてぇ。

そん時その、宗純が、もう、ぱあっと行たて、刀の柄に手をかけた時、

将軍の腕をフッと握ったらしかたいなたあ。

その、宗純がどうして十一どみゃあなった時のことじゃっけんなたあ。

「今、幸いにして天下泰平なり。

いくなんどき戦乱の起こらぬとも言い難し。

将軍たる者が文武の道にふけり、茶ないなどは何ごとならんや。

何ぞ宗純師を惜しまんや」と、言うたらしいです。

そいぎぃ、義満公が刀の柄をおさめて、

「余が悪かった」て、言うごたっ風で、

将軍、あっちゃこっちゃこっちぃ、

あの、詫びたちゅう。

その話も私ゃ聞いとったたいなたあ。

(出典 未発刊)

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