東川登町袴野 南 権平(明31. 3.22生まれ)

 ある京都の桃山の御殿において、

花見の宴が開かれた時に、豊臣秀吉が諸大名を集めて、

「今日はめでたい日柄でもあるし、花見でもあるから、

各々方、狂歌を詠んでみよ」と、仰せになったもようでございます。

そうすると言うと、面々の者は、われ劣れずと首をかためておるばかりで、

一つも出し物がおらんわけで。そうすると、秀吉公が、

「予が示す」と言うて、出された太閤の狂歌は、

せみさんもごかくも富士の一滴に

とっとと春は()にけり

っと。そいぎぃ、加藤清正が、

「私も一首できました」と言うて、出したのが、

富士山に腰うち掛けて大空を

かさにかぶれど耳に入りけり

と。そうすると、福島政則が、

「私も一首できました」

と言うて、出したのが狂歌でございます。

富士山を庭に移して朝な夕な

わが弓射る(まと)にするから 

と。そいから今度(こんだ)あ、片桐勝馬が歌っとるのが、

富士山をえつけとなして腰に()げて

琵琶の水を一息に呑むと。

そうするとだんだん、あの、歌が大きくなって、

それから、細川(ゆう)(さい)という人が頓知に猛けた人で、

「私もできました」と。

富士山を寝てけとしたるその人は

はさみの先で突き飛ばしけり

て、こう作ったもようでないど。

そうするというと今度は、片桐勝馬が、

富士山を寝つけとしたるその人は

鼻毛の先で突き飛ばしけり

て、こう作ったもようたいなたあ。

そいぎぃ、福島政則がまた、負けのちになって、

「私も一首できました」と。そうすると今度は、

富士山を枕となして昼寝せば

それは浪花の倉にほそう

と。

そいぎぃ、今度は福島政則が大勝利思うとっところに、

今度はまた、それに曽呂利新左衛門が出て来て、

山根つけ海のきんちゃく川の(しも)

折り目は三五十五の月

と、こう作ったもようです。

そいぎその、福島政則が、また負けのちになって、

百万の敵来たるともおどろかず

ちと吹き吹いて吹き飛ばしけり

て、こう作ったもようたいなたあ。

今度(こんだ)あ福島政則が大勝利を得たと思うとっところに、

今度あ曽呂利新左衛門がまた出て来て、

天と地と団子に丸め一飲みに

ググッと飲んだが(のど)につかへん

と。そいぎぃ、曽呂利新左衛門が大勝利を得たていう話たいなたあ。

そいから今度(こんだ)あまた、何日かした時分に、

「先日はその、大きな歌で面白かったいんどん、今日はいちばん小さい歌を歌ってみよ」と、こう仰せになったもようです。

そいぎぃ、細川勇斎と、曽呂利新左衛門と、ハッキョウショウジと三人おるところへ、いちばん口に、最初にハッキョウショウジが、

消し(つぶ)の中くりぬいで家を建て

奥の座敷でしょけんかきもの

と、こう作ったもようたいなたあ。

もうそいぎ今度(こんだ)あ、細川勇斎が、

消し壷の中くりぬいで家を建て

奥の座敷でしょけんする人に止まったのみの金玉

て、こう作ったてぇ。

そいぎ今度あ、曽呂利新左衛門が勝利を得たという。

そう言うのを私もぐっと昔、聞いたことのあったいなたあ。

(出典 未発刊)

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