吉野ヶ里町下藤 重松新作さん(36)

 吉野ヶ里で一人(ひとい)あの、

旱魃の時、濠(ほい)掘ったもんなた。

水溜ば堀いなったやろう。

そげぇ、誰(だい)じゃい子供が死んだて。

そしたら、餅ば上げて。

昭和二十八年の年たんたあ。

旱魃も旱魃、とれんじやった所も大抵あんもんなた。

そん時、あっけぇ、吉野ヶ里と田手の上の方ばってんが、

吉野ヶ里の内、子供が入(はい)り死んだわけ。

そいぎぃ、その婆(ばば)さんがなた、お母さんじゃなし、

婆さんがもう毎日二時頃、こそっと行たて餅ぱなた、

「毎晩、餅好きじゃったけんが、このわいの餅好きじゃったけん」

ち言うて、誰( だい)でん知らんごと、正月の餅ば搗きよったもんなた。

そいぱ今度(こんだ)あゆるめて、新しゅうにゃあて、そいで、

「好(し) いとらしたけん」ち言うて、こそっとそけぇ上げや

行きないよったちゅう話は聞いとっ。

石ば、こう、立ててあったたん。

こいくりゃぐらいの石ば死んだ所(とこ)の上。そして

「こりゃ、何(ない)かい」ち言うたら、

石の立っとんもん。あたいどんは、

「何かい」ち言うて、言うて、行きよったら、そぎゃん言うて、

「こりゃない『餅石』ち言うて、婆さんの、ありゃ子供ば、

吉野ヶ里の子供が死んだと。そこで、婆さんがもてじぃ、

そぎゃんして夜中隠れて餅ば上げや来()ないよったてぱい」

ちゅう話て。そいで、石ば、

こう立てておったもんじゃい、こりゃ

「餅石」ちゅうばってんのまい。

こりゃその孫が死んだとのむぞうしゃ、ずっとわが守いしよったと。

ところが、守いしよった孫がそこの珍しゅう水遊びしよって、

落ち込んだわけたいな。

まぁ、そういうことで、

「こや。『餅石』てったい」ゅうて。

その『餅石』は、私ゃ聞いとったばってん。

(出典 未発刊)

標準語版 TOPへ