伊万里市波多津町井野尾(名前・年齢不詳)男性郷土史家

 この部落は岸岳末孫で山のへき、畑の周(ぐる)りとか、

あの、田圃の中とか、岸岳末孫という人が

大抵おられたもようでございます。

まあ、三段切りのこのくらいの団子石(だごいし)を

こっちにも食わせなきゃ。

そして、その前にお知らせしておかなきゃならないのは、

この唐津郷の範囲になっておるわけです。

で、表現が伊万里の言葉は今、

優しくないと言うような言葉が使われておりますが。

まず、ここは井野尾という部落でございます。

まあ、戸数は三十八戸ばかい。

井野尾と言う部落の名前のついたことの題目で

ちょっとお話をします。

むかし、殿様が行き合いの、今は唐津、

あすこ県道じゃったですが、

杉谷でもの凄(すご)う大きな杉の木が立って、

昼間も暗いような杉谷、またそこには

今にも落ちそうな大きな岩、差し掛かっております。

そう言う風な時分に殿様が来て、

「こりかりゃあ先ゃあ、部落のあるもんなあ。

こういう山ん中に連れて来て」ち中老に言われたそうです。

そうして、つめいりの服に、行き合いのタオル、

そしてそこの、しゃかとというところがある。

この、しゃかとに腰下ろして、

「こりゃあ、いいなあ」て、こうちのはなが言われたそうです。

こうズーッと三キロばかり、今は去年おと年から基盤整理して、

こう言う風に整地がなされておって、

百年の計を一年でぴしゃっとなしておりましたが、

その当時は。

小か田ん中がズーッと堤の、

今、学校の下の方まで来ておりますがね、

で、殿様の言わしたとは、こりゃあ、当てにゃならん。

百姓ないとん、先任ないとん聞いちみなわからん。

その頃、ちょうど寒か時―は、もの凄すごん、

爺ちゃん婆ちゃんたちの記憶じゃろうが、

物貰いの禅門と私たちは言いよりましたが。

その禅門が、そん時ゃあ、

いちばん物貰うてあぎゃんとやっけん、

禅門にゃ聞いちみにゃきゃわからんじゃん。禅門もその、

「ここは二度周りもせんけん、まあ、いいのう」

て、こう言ったそうです。

それで、戸籍係がごう間違ったか、今は、現在では井戸の井と、

野原の野と獣(けだもの)の尾ばされておりますが、

大体、井野と言うようなことで、現在されております。

四ん箇所、五箇所、六箇所ばかり小字名があります。

前田、鳥居柄、波多津道、山口、黒田代、それから古賀山は

同(おんな)しようですが、

やっぱり波多ケ原でございましょうな。

古賀山と言う所の、ただ付言古賀ちゅう。

そういうふうな地名が残されております。

で、大体、この東谷の井野尾というところは、

組合もあるいちばん十三部落あって、中心地になっておる。

この屋敷は古賀譲(じょう)二郎(じろう)さんと言う人が、

子ども五人持って、男四人、一番下が娘の子で、

そうして当時は高校をさせるのに、

村いちばんの財産家が、子どものために学費にみな使用して

使ってしもうて、みんなうち払って現在では神戸とか名古屋方面に

息子さんは行っておられます。

その後に経塚というのがありますが、

二十一体、和歌を書いてあったり、まあ二百年ばかりの石碑が

立派な物が建っております、三段じきんでありますよ。

で、古賀譲(じょう)二郎(じろう)さんの

この恩徳を忘れてできない私たちは、

この県会議員になっておられる時に、

第二級河川になっておると言う立派な恩恵がある。

これは古賀までズーッと第二級河川。

百二十年ばかり前に六地蔵さんが建っておる。

その六地蔵さんの脇に冬は温泉のような暖かい、

夏は氷水の飲むように、

もう西瓜(しいか)でも飲み物でも何でも、

もう立派な飲料水がそこに流れております。

 (出典 未発刊)

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