嬉野市塩田町 蒲原タツエさん(大5生)

 天台宗で比叡山が総元締めでね、比叡山は、伝教大師。

あの方が始めなさったから、非常に行(ぎょう)が厳しくてねぇ、

この、あれ、千日行て、峰を千日もね、お参りして歩(さり)いた。

そいぎ山には、そぎゃん、良か天台宗ちゅうぎ良いお寺だから、

山の峰に祀ってあるそうです。

そういうことでね、あの、ズーッと、

それこそお握りを小さいのを三個。

それに一つは、神様に必ず、その、ズーッと一所(ひとところ)に

おらんで渡り歩きんさっから、お供えせんばらん。

小さいお握りば一つ。

そいから一つはね、鳥の内にも烏にやらんばらんて。

そいで、一つはね、たった一つ食べんばらんて。

けれども毎日、このお寺の方で、三個のお握りは、

小さいのを準備しんしゃって。そして、一つは神様に、

一つは烏に、そいから一つは小さいのを自分が食べる。

そいで、そんなにコウコウ、ズーッとお参りして、

しかも歩いて、高い山の険しい所を歩いてね、

行っているとですよ、もう本当に、十日ぐらいは元気だけど、

もう十一日、十二日頃からは、元気が無くなるて。

足のかわらんごと。そいぎ付き添いの人が、

十人ばっかい付き添って、いちばん口は六人付き添って、

三人ずつね、後ろを抱えて、両腕を抱えて、

後から足がかわらんごとなるそうです。

もう食事がしない。そいからそうそう、水。

第一入れたては、あわせ装束で、白い着物を着て、

そして脚半も真っ白。手っ甲も白いものしてね、

あの、竹の筒に、これをこんくらばかいとを

一升も入(はい)っそうです。まずい物、一尺ばかいのね、

竹の筒に一升はいるお水入れて、お茶はいかんそうです。

水を入れてね、背中に花柴を入れて、

(そこに、私ん所ありますから、後から取ってきて見せます。

もう青い色の花が咲きます。これを死ぬどき必ずこうね、

あの、出棺の中に入れて、仏さんときっても切れないことですよ。

そいぎぃ、そのしきみ〔花の名〕をね、まあ背中に一束、

(沢山つけてやっとこあっでしょうね。)一束背中に背負って、

そいから手には、右手にはお数珠と、そいから左手には、

一升の水を持って、山から山にズーッと歩いて、回っと。

そいぎぃ、そいばせんばねぇ、途中で死ぬ人もあるそうです。

そりゃ、ほったらかして。山ん中に。その連れの人ばおんさっけど、

もう本当に野に果てて、山ん中で死んで、

もう体力のなくて死んだ者(もん)も、

「ものにならん」ち言(ゅ)うて、そのままほったらかしてあっ。

だけども、命のある者は、もう次から次へとお参りば続くそうです。

もうたったそいだけたいね。そいぎぃ、だんだん食べえんごとなってねぇ、

もうご飯は喉とおらんごとなっ。

そして千日もかかって、大方、死人のごとなって。

私(あたし)ん所の、私の里のちっと上、山法師(やんぼし)さんのおんさった。

そいぎぃ、そのお父さんもね、あの、行ばしんさったですけんね。

今の長いこと何か月て食べんてちゃ。本当は三年ばか行かんばらんけんね。

三年余(あま)い行かんばて。

しかし、二つに今は区切ってあるて、一年と、チョッと。

そいぎぃ、その一つはそんなでね、三年ばかりかかって、

三年余りかかって、行するのを、千日行を、今は二つにわかれて。

(そりゃ私は、また婆ちゃん達から聞いたとですから、

本当かどうか知らんですよ。でも、婆ちゃん達は割は知っとっでしょう。

だから本当の正確さは、チョッと確信はできません。聞き伝えだから。)

そして、今は二つにわかれて、そのお父さんがね、もうペシャンコになって、

本当にこれは死んどんさっばい、と言うごとして、馬の背中にグターッと乗せられて、

村人は全部(しっきゃ)あ出迎えたて。正道(しょうどう)てついとんさったですもん。

「正道さんの病気で死んで来(き)よんさっ。死んで来よんなさっ」

て言うてね、皆が出迎えたちゅう。

そいで、今度は息子さんがね、

「いちばん下に自分の職業ばつかすっ」て、言んさったぎね。

その人が、割合、背丈も小さいし食欲も

余(あんま)い進む方じゃなし、痩せといさっ。

そいぎ兄ちゃんの方が、少しガッチリしとったけん、

「この子が行ばさすっぎぃ、ちぃ死なすけん、我が代わってすっ。

ほんーに勧めてくいろ」て、言んさったぎね、代わいはいかんち。

自分が小(こま)かち、いちばん口から思うたけんね、

「自分の信用した者(もん)ば後継ぎすっ」ち。

そしてその、祐徳バスの運転手になんしゃったよ、兄ちゃんは。

面白い人で愉快な人じゃったけど。

そいでもね、その人も、もう私より里に行って聞いたらね、

里の嫁さんの言うには、

「立派に行ばして来んさった」て。

「そして今も元気で生きとんさっ」て。

私の母なんかも、その方にほんに信仰してね。

正道さんの後継ぎを、今の若(わっ)い者(もん)は私は名前を知りません。

そいぎあの、元気でねぇ、それこそ、あの、歩きえんで、

背負うわれて、こう灌頂のね、その行者、白い着物着た人がね、

背中に負って、帰って来んさったて。

そして、まあ二月(ふたつき)ばっかい顔見た者(もん)のなかった。

そいけん、ベッタリお家(うち)帰って休んどんさったとじゃいないですか。

でも、そんな行をしとんさっからね、精神力が座っとっ。

そいで私の母なんかねぇ、

「もう、あの方に何(なん)でも拝みしゃあがしよっぎ良か」

ち言(ゅ)うてね、病気なんかも死ぬまでお医者さんにかからんで、

ちょうど死ぬ間際に、二、三日お医者さんにかかって、あの、極楽往生したですよ。

余(あんま)い病気のなかったじゃなか。

「ちかっとばかい熱の出たとは、正道さんに拝むぎ治(よ)うなっ」ち言(ゅ)うて、

九十一歳でね、ほーんに病気はなしにね、

私を今日は、呼吸をね、後ろを向いてしおんしゃった。

後ろにガクッて息して。

そいぎぃ、例えば蘭なんかは、こう心配して見よったぎぃ、

「あの方(かた)も後ろさいなんしゃったぎぃ、じき死にんしゃったよ。

そいけん、お母さんも死にんしゃっかわからんけん」て。

そいぎちょうどその、前日私が行たですもん。

チョッと訪問して、母ともう、恐ろしゅう長(なご)う、母がまた話すもんだから、

「そうね、そぎゃんことあったねぇ。うん、うん」ち言(ゅ)うて、私(あたし)聞いて、喋って来とった。

「あんなに元気で喋って、死ぬはずなか」て、言うたらね、

「いや、何(なに)しろ今までと違(ちご)うたごたっ。

こう後ろさい呼吸ばしおんしゃっけん、チョッと姉ちゃん来てみて」て、言うから、

「そいぎさ」ち言(ゅ)うて、自動車に乗せらした。

そいぎぃ、そん時、ホッとは、しとったけど、その晩に終わりでした、亡くなった。

そんな行をした、あの山法師(やんぼっ)さん。

(出典 蒲原タツエ媼の語る843話 P836)

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