嬉野市塩田町 蒲原タツエさん(大5生)

 むかーしむかしねぇ。

峠さ、力蔵さんちゅう人のおったとよう。恐ろしか太か体格でもう、村でもいちばん太か体格じゃったて。そうして、眉(まゆ)も濃ゆごゆ生(お)えてねぇ、もう立派(りっぱ)か人じゃったいどん、その力蔵さんがさ、俺(おい)も一生に一度ぐりゃあ京都にゃ見物に行かんばにゃあ、て思うて、上方参りば思い発ちんじゃったちゅう。

あいどん、こりゃあ、字は何(なーい)も知らんけん、あの、字ば知っとんしゃっ物知りさんの家(うち)行たて、俺(おれ)あの、合羽てろん、傘てろん、名前ば書(き)ゃあてもらわんば困んにゃあ。こいなっとん名前ば書ゃあてもろうて来(く)って、頼みぎゃ物知いさんの家行きんしゃったて。

あったぎねぇ、その物知いさんがさ、なんもかんも読みえんじゃ、と思うて、傘にも合羽にも、太(ふと)ーか字で、「鎮西八郎」て、書きんしゃったちゅうもん。そいぎぃ、力蔵さんは何もわからんもんじゃい、

「有難う」ち言(ゅ)うて、そいば持って帰って、

「今日(きゅう)は天気も良し、上方行きにはいちばん良か日和(ひよい)」ち言(ゅ)うて、テクテク、テクテク出かけんしゃったて。その合羽と傘を持ってねぇ。

そいぎぃ、とうとう日暮れになったもんじゃい、宿屋に泊まるごとなったあ。あったぎねぇ、その宿屋ん者の恐ろしゅう丁寧にしてさ、銭(ぜん)も沢山(よんにゅう)持たんとこれぇ、いちばん上等の部屋に案内すっちゅうもん。そいぎぃ、ぎゃん良か宿屋に泊まったことのなかったとこれぇ、ほんに困ったにゃあ、と思うとっしゃったいどん、もう言わるっままに。あったぎぃ、あくる日ねぇ、また都さい行かんばらんけん、と思うて、

「こいから山を越ゆっぎぃ、東海道に出(ず)っとじゃろう」て言うて、聞きんさいたぎぃ、宿ん者(もん)のビックイしたて。

「山ん、危なかばい。あの山を越ゆっ者ななかあ」て。

「なしてぇ」て、力蔵さんが聞きんさったらねぇ、

「山の上に、太ーか大蛇のおって人間ばうち食うて、生きて返った者ななかあ」て。「そいけん、この山は越えて行かんてちゃ、あっちの方へ回って行くぎぃ、東海道に行かるっ」て言うて、宿ん者(もん)の言うたて。

「回って行くぎ何日ばかいかかろうかあ」て、聞いたら、

「三日もかかっぎぃ、東海道に出ます」て、言うてじゃっもん。

「そいぎぃ、山越えすっぎぃ」て、言うたぎぃ、

「山越えすっぎぃ、半日ぐらいじゃろう。東海道だろうけど、命んなかから、もう山さりゃ行きんさんなあ」て、念を入れて言うてじゃっもん。

あいどん、三日と半日でねぇ、宿賃も持たじとこれぇ、と思うてねぇ、まあ、この山ば登って、て思(おめ)ぇんさったて。そいぎねぇ、

「その、何(なん)じゃいろう、あの、お宅の名物の粉のコウセンちゅうとば、売っとっとば沢山(よんにゅう)くれやあ。私(わし)ゃ、そのコウセンは大好物じゃ」ち言(ゅ)うて、貰うて山をテクテク登って行きんさいたちゅう。

あったいどん、コウセンば入れた袋ば背中に括(くく)りつけていたもんで、それをガブリとやった大蛇はコウセンが鼻に目に飛び散って入り、袋ごと飲み込んだもんで大蛇のお腹(なか)は樽のごと膨(ふく)らんでドタバタしばらく苦しんどったが死んでしまった。力蔵さんは難なく山を越え都さい上ったが、行き着く先で丁寧にされるもんで不思議に思っていたて。京の宿屋に着いたら、奥座敷に通されて床の間に飾ってあった見事な弓矢を主人が持ち出して、

「家(うち)の息子に、明日、弓を教えてもらいたい」ち言(ゅ)うて、頼まれた。

力蔵さんは心の中で、俺(おい)は田舎の百姓だのに困った、何より困ったことになったと、半べそをかきながら床に就いたが、なかなか眠られん。そいで、床の間の弓を取り出し矢をつがえたら、ワナワナって手の震うた拍子に矢の襖の向こうさ飛んだ。困ったことば仕出かしたと、真夜中に逃げるよいほかないと思うとったら、ガヤガヤと騒がしい。そうして、宿の主人が出て来て、

「鎮西八郎様、有難うございました。二人の泥棒が金庫を運ぶところをあなた様の弓で射殺してもらいました。有難うございました」て言うた。

そいで、やっと力蔵さんは合羽や傘に書いてある名前は、鎮西八郎て書(き)ゃあてあったけん、こん名前のお陰俺(おい)は大事がられたばい。早(はよ)う化けの皮の出んうち田舎さい帰らんばと、引き止められるのば振り切って帰ったちゅう。

(出典 蒲原タツエ媼の語る843話 P627)

標準語版 TOPへ