武雄市西川登神六 前田米作さん(明33生)

 神六神社には、大きい公孫樹(いちょう)の木が、

二本あっでしょう、東と西に。

東は女ギナンで実がなると。

西のとは男ギナンで実がならならんて。

大きくて太かですよ。

東のとはですね、なかなか由来【いわく】

のある公孫樹の木です。

女ギナンで実がなるそうです。

この東の方が、いわれのある公孫樹の木です。

ここの殿さんはですね、豊臣秀吉から、

じきじきにですねぇ、今でいう大字神六・高瀬・

庭木・矢筈を自分の領地として、

ここに居座って番しとったわけですもんねぇ。

そがんしよったぎぃ、関ケ原の戦いで、

豊臣秀吉と徳川家康が、天下分け目の戦いをして、

秀吉が散々負けて、ここの土地も家康から

取られてしもうたわけ。

家康と秀吉は、最初は仲の良かったけれども、

天下をとろうで関ケ原で一戦交えて、

秀吉が負けたわけでしょう。

そいばってん、家康のお情けで、ここの殿さんには、

「お前の国には手をかけん。そのままでよろしい」

て言うて、お情けで助けてもろうて、

船で佐世保に着いたちゅうもん。

そうして、ここに大きな建物をここに建てて、

「もう、食うには、どがんしたら、よかろうか」

ち言うて、そうして、田ん中を開きかけたところが、

その死んだと。

そいぎぃ、前田勘左衛門ていう、名前は残っとっ。

残っとっですよ。

その人が、田を作って、

どんな種を蒔こうかちゅうて、

種を伊勢に買いにいかしたそうです。水稲種を。

昔は、種は伊勢にしかなかったそうですもんね。

そいを買いに行くとに四十日かかって、

種を買いに行かしたらしかですねぇ。

そうして、お伊勢に行って買ってきて

植えたところが、本当によくできたそうですねぇ。

そいぎまた、伊勢にお礼に、

その米を一升ずつ背負(かろ)うて、

四十日もかかって、お礼に登ったらしか。

田ん中を作った一族、ニ、三人が。

そうして、帰って来た時に、

ギナンの木を植えとっですなぁ。

そいがですねぇ、天和元年から二年くらいの頃、

お伊勢に何日でんかかって行って、帰ってくっ時、

伊勢の分身としてやるて言われたのが、いまだに、

祠の中にこのくらいの鏡の入っとっですよ。

紋は織田信長の紋がついとっですよ。

その公孫樹の木の根っこにですねぇ、石がですねぇ、

平たっか石の太かとのあったですなぁ。

俺(おい)どんが小(こ)まか時ぃ、そいに、

天照大神宮、参拝記念と掘ってあっとですよ。

(出典 佐賀県文化財調査報告書 第71集「~矢筈・神六の民俗~」p141)

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