多久市北多久町中ノ原 飯盛康晴さん(明43生)

 須佐之男命(すさのおのみこと)が、

寒い時に船で着いたのが、

やっぱり四国だったと思うんですがね。

そうして、もう衣も びっしょり濡れて、

そうして、もう寒くて、

どうにもこうにもならないから、

部落を探して行っていたら、あったそうです。

「がんして【こんなにして】もう、

雨に濡れて寒うして、

もうどうにもならんけん、そいけんが、

あの、がんして温めてくれんかーあ。

衣もじゅっくいなっとっけん

【びっしょりなっているから】、

乾かしたかけん【したいから】」

と言って、行ったら、

「家(うち)ゃあ、もうそがん焚物はなか」

と答えたらしい。

ところが、

そこは焚物は沢山、蓄えてあったそうです。

しかしながら、

それを焚いてくれなかったそうです。

そうしていたら、

今度は農家があったから、

そこへ行ったら、

なかなか生活も貧しいところでした。

そして、

「実は、こう言うわけ」と言ったら、

「あーあ。そりゃお難儀でしょう」と。

「そいじゃ【それでは】」と、言うことで、

「さあ、早(はよ)う上がってください」

と言われて、

側に寄って何かを寄せ集めして。

そうして、須佐男之命の衣を乾かして、

温めてやったそうです。

そうして、粟(あわ)の粥(かゆ)を

食べさせてもらったらしい。

それが、どうかと言うと、

一番、最初入ったのが、兄さんの家だったらしい。

そして、その弟の家は貧しかったそうです。

しかし、親切にしてもらった家は弟の家でした。

そして、帰りがけに、

「紙をいっちょくれ」と、言って、筆で書いたのが、

〈無病息災、子孫繁盛の門〉と書いたそうです。

そして、

「これを、その、萱(かや)にくびいつけて、

角口の所(とけ)ぇ下げとけ」と。

「そいぎにゃあと【そうしたら】、

もう病気・災難はまぬがるっ」と。

「そして、もう家は繁盛するけん」

子孫繁盛すると言うことで、

子孫繁盛の門と言うことで、差し出しました。

それから、早速そのようにしてもらったから、

萱に それを結び付けていたところ、

病気が流行(はや)ったらしい。

そうして、その村中は全部死んでしまいました。

しかし、その弟の家だけが残ったと言うことで、

菖蒲(しょうぶ)と

萱を上げるようになったそうです。

[文化叙事伝説・英雄]
(出典 多久・飯盛翁が語る佐賀の民話 P97)

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