佐賀市大和町川上大願寺 野田輝保さん
倭建命(やまとたけるのみこと)は、
こちらに来るまでに倭男具那命と言われていました。
十二代の景行天皇様は倭建命と言わないで倭男具那命と言われていた。
それで、倭男具那命が景行天皇様の命令を受けて、この辺の豪族だった熊襲を征伐するために来たんでしょう
そして、鍋島の蠣久(かきひさ)を通って来られた時、蠣がたくさんあったので、そこを蠣久と言うようになったそうです。
そして、川上に来られて、川上に住居を建てられたので、川上建(かわかみたける)と言うようになったそうです。
それで、この辺の城主になられたんでしょう。
それから、真手(まて)と言うのは、熊襲が殺される時、「まて」と言ったからだそうです。
そして、熊襲の墓と言うお守り塚があります。七つ、墓はあるそうです。
それから、この辺に小隈とか佐熊とかあるのは、熊襲の名前から来ていると言うわけです。
(出典 大和町の民話 P13)
佐賀弁版 TOPへ