佐賀市諸富町西寺井 三島国夫さん(明34生)

 徐福さんは、秦の始皇帝から命令を受けて、

「東の島に、山島に不老不死の薬のあるから、それを採って来てくれ」

と言われて、日本に派遣されました。

そして、徐福さんは、有明海に入って来られました。

それから、現在の諸富町の寺井津の東溺(からみ)と言う所の、

昔からある権現さんと言うお宮の川渕に着かれたそうです。

そして、葦(よし)の茂っている所を上がって来られました。

そうしたら、

「葦がですよ、権現さんを境にして、右側の方の葉は右ばかり、

左側の方のは左の方ばかりに向くようになった」と言うことです。

権現さんを境にしてからです。

「そう言うふうに葦がなった」との言い伝えです。

それで、徐福さんが上がった東溺(からみ)の

浮盃(ぶばい)と言うところは、

この付近で、一番初めに、牡蠣(せっか)が出来て、

それが積み重なって、島になったらしいです。

有明海の最初に出来たとこらしいです。

徐福さんは、そこに上がって、長い旅路で疲れて、

体を洗いたかったので、真水を捜して歩いたそうです。

それで、どこの水も塩気があって肌が綺麗にならないから、

井戸を掘り、水を汲み上げて体を清められたそうです。

その井戸が東寺井にある井戸と言うことです。

それで、その手を洗ったと言うのが訛(なま)って

寺井になったと言うことです。

それから、徐福さんは、

初めは、ここに上がられたけれど、

海岸で潮風が吹いたり、暴風が来たりするから、

結局、今の佐賀市の金立山に行かれたそうです。

寺井から三重に行って、それから、米納津に行って、

佐賀市の寺町を通って、そこをズーッと登って、

金立の千布(ちぶ)に出たそうです。

そうして、金立山に登られました。

それで、今でもお下りと言うのがあるんです。

旱魃(かんばつ)が起こると、

有明海の沖ノ島まで、お下りになる時に、

この溺(からみ)の権現さんの所まで来て、

そこから、船を出して沖の島へ行かれるんです。

(出典 新佐賀市の民話 P36)

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