佐賀市川副町下早 木下 一男さん(明37生)

 昔の聖武天皇の頃ですかね、

奈良時代にですね、九州に疫病が流行(はや)ったらしいですね。

それが年々続いて、それから、飢饉(ききん)のためにですね、

餓死する者が非常に多かったらしいですね。

それで、人々は神社寺院に熱心に詣るけれども、

災難は一向に収まらなかったそうです。

その頃、雲仙に行基菩薩さんが来られて、

人々を教化されておられたので、その徳を知ったこの川副郷の人がですね、

雲仙まで行ってお願いしたら、行基菩薩さんが非常に哀れんで、

川副まで来てくれたそうです。

行基菩薩さんは、昔、九州を回っていた頃、

筑後の国で、一本の大きな楠の木を切って海中に流して、

この木の留まる所は非常に縁がある土地なので、

そこで仏像を刻んでやろう、と思っておられたそうです。

ところが、ちょうどその当時、﨑ケ江の南の海岸の吉村と言うところにですね、

昔は芦村と言いよったところにですね、

夜な夜な、光明の光が出よったらしいです。

そのことを菩薩様に申し上げた所、その大木を見られてですね、

その木こそ、昔、筑後で海中に投げた楠の木だったので、

大いに喜ばれて、この楠の木にですね、薬師如来を七体刻まれたそうですね。

それが、今、﨑ケ江、米納津、寺井、徳富、南里、新郷、袋の

七カ所に安置してあります。

これに、国家安全、悪難消除を祈願されると、

病気や飢饉は大抵に治まると、そう言われております。

それから、東﨑ヶ江に地蔵菩薩がありますが、

その地蔵菩薩は、この薬師如来の残りの木で刻んだ像だそうです。

今から千二百ばかい前に、

誰が刻んだかは知らんばってん、地蔵菩薩の像があるて。

そこの前は、稲を担(いの)うて【背負って】、

通ることも出来(でけ)んて言いよった。

そがん風に立派な像であるから、

遠方からも非常にお詣りが多かったらしいですね。

そいけん、最初は、その地蔵菩薩さんを、

禄を払って、侍に番をさせとって、後には、

侍さんの代わりに、尼さんがおられたそうです。

それでも、もう放置しておったために、虫が食ってボロボロになったから、

昭和八年に、東﨑ヶ江の女の人が新しい仏像に変えたと言うことですが、

今でもね、一月一日は東﨑ヶ江部落でですね、お祀りをしています。

(出典 新佐賀市の民話 P44)

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