神埼郡吉野ヶ里町小川内 武廣 勇さん(明32生)

 今からちょうど六百年ばかり昔、

蛤岳(はまぐりだけ)(八六二・八メートル)に大野川の、

あの、源があったもようです。

ところが、ちょうどその時分に、

今の三田川(神埼郡吉野ヶ里町)と東脊振(神埼郡吉野ヶ里町)が非常に、

水が足らないために、何時(いつ)も旱魅(かんばつ)がするもんじゃい、

何とかして水を引いたらよかろうというところで、ちょうど、

鍋島さんの家来に成富兵庫茂安という人が、あの、おられた。

で、その人が、今で言うならば土木部長みたいな役目やった。

で、蛤岳を視察をして、

「うん、この水は東脊振の方さい、あの、石動(いしにゃあ)川さい引いたら、

よかろうに」と言うところで、その人がちょうど、

三田川と東脊振の百姓を集めて、そうして、蛤岳の中腹は、

ずーっと掘って水道を作んさった。

そいで東脊振と三田川は、充分に水があるようになった。

水が増えたもんですから。

ところが、東脊振と三田川はよかったけれども、

その水がずーっと大野川に流れて来る所が、福岡県に流れて来る。

そいで福岡県の方が旱魅をするようになった。

毎年毎年、日照りの時には、旱魅をして田植えが遅くなるもんじゃい、

ちょうど今の福岡県の筑紫郡の那珂川町の別所(べっしょ)という

所の部落がありますが、そけぇ[そこに]お万という後家さんがあったもよう。

で、ある時、非常な大旱魅の年があって、

ちょうど別所は、田植の時期なったばってんが、

田が植えられんもんじゃい、こりゃあもう、蛤水道ば何とかして、

こりゃ落としてこっち蛤水道の水ば取らんばこて[取らないと]、

でけん[いかん]というところで、毎日(まいひ)毎日に部落寄って、

評定(ひょうじょう)をした。

で、これというその、よか話がでない。

それで、その、

「くじ引きでいっちょ[ひとつ]その、あすこ[あそこ]の蛤水道の水ば

落とそうじゃなっか」と言うところで、

決まったのが、くじ引きをしたもよう。

で、庄屋さんがくじを出して引いたところが、

ちょうどその、お万という、お万さんにくじが当たったわけ。

それで、お万さんがその時に、

ちょうど一年前に自分の聟さんを亡くしとったもんじゃい、

で、乳飲み子がひとりおったもよう。

そいで、自分がくじに当たったから仕方ない。

で、それは、その、どういうわけで水が落とそうというのは、

鍋島藩の侍が蛤水道の番をしとった。

そいで、どうしてもその、落とせない。

そいで、お万さんが、

「そいじゃ、私が落としましょう」と言うところで、ちょうど乳飲み子を

自分が抱いて、そして小川内まで辿(たど)り着いたもよう。

そして、小川内の上の方に、部落の上の方にですね、「お万止まい」

という天然石の下に、四人ぐらいはあの、寝泊りできるくらいの、

あの、自然石がある。

そこにお万さんが、泊まって。

そうして、毎日毎日にその蛤水道を水を落とそうと思って、伺っとったもよう。

で、四、五日しても、どうしても向こうの鍋島藩の見張りが

厳重じやもんじやい、どうしても落とす暇がない。

そいで、これはもう、仕方ないと。

このまま私が家(うち)に、部落に帰ったら、部落の者は何と言うだろう。

部落の人に申しわけない。と言うところで、自分の乳飲み子を、

稚児落として言うて、今、那珂川に碑があります、小川内の下の方に滝がある。

そこに自分の乳飲み子を投げて、この乳飲み子は邪魔になるから、それに捨てて。

そうして、自分がひとりで蛤水道に上って、そうして落とそうと思うて、

やったもよう。

ところがやっぱり、侍が、鍋島藩の侍がおって、

「何(なん)しに来たか」と。

「こんな所に女の来る場所ではない」と言うて、追い返した。

そいで、とうとう水は落とせなかった。

このまま帰っては部落の人に申しわけがないと言うところで、

ちょうど蛤水道が、二〇〇〇メートルぐらいのところに、

あの、お万ヶ滝という現在、滝があります。

そこに、お万さんが身を投げて死んだもよう。

そいで、そこの滝が、お万ヶ滝となったという話であります。

それから稚児の滝と言わなかったでしょうけれども、

今それをとって稚児の滝と、

その滝がなったわけ。

〔自然説明伝説 (水)〕

(出典 吉野ヶ里の民話 P211)

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